奈良寿香堂
44,500円
【特徴】 2頭の龍が硯を囲むように対峙する、華やかで縁起の良い見事な彫刻がされた希少価値の高い旧麻子坑硯。 表面の鋒鋩が繊細で、惚れ惚れするような石面の滑らかさです。 硯のサイズ:155×100×23mm 外箱サイズ:175×120×43mm 【店長からの一言】 中国に於いて「龍」は、幸福と財産をもたらすもっとも縁起の良い生き物とされていますが、こちらは陰陽(調和)を意味する1対の双龍が刻まれた、非常に芸術性の高い硯です。 もちろん硯自体の鋒鋩も硬く繊細で、磨墨においては粒子の細かい素晴らしい墨色を引き出します。 道具にこだわりの有る方、珍しい硯をお求めの方におすすめ致しております。 ※こちらの商品には外木箱に一部欠損箇所があり、その分お値段も安くなっております。硯には全く影響はございませんが、予めご了承くださいませ。■旧端渓とは…現在国内で販売されております端渓は「新坑」と呼ばれる場所で採掘されたものです。新坑採掘以前の本来の坑で採掘された硯のことを「旧端渓」と致しました。
質カラーズ
39,600円
中国で購入した端渓硯の出品です。サイズはW14H20,6D4,8cmで木でできている蓋と底の台を含めた厚さは7,7cmで付属品はございません。硯の上部に彫り物が施されています。1回だけ使いましたがとても綺麗な状態ですのでお勧めです。管理番号○S13-66-2
教材自立共和国
46,640円
書道硯 麻子抗 彫花硯 中国の広東省にある斧柯山から産出される端渓硯の一種です。 石質は赤みを帯びた紫緑色の凝灰岩です。 鋒鋩(墨を削る細密なヤスリ状のもの)がきめ細かく、密集しており、墨おりも良く発墨も良好の硯です。書道硯 麻子抗 彫花硯 中国の広東省にある斧柯山から産出される端渓硯の一種です。 石質は赤みを帯びた紫緑色の凝灰岩です。 鋒鋩(墨を削る細密なヤスリ状のもの)がきめ細かく、密集しており、墨おりも良く発墨も良好の硯です。 ■商品サイズ/126×204×23mm ■外装サイズ/149×226×40mm ■用途/半紙・小画仙紙・半切用 ※天然石のため全品硯面の模様、形が多少異なります。
Joshin web 家電とPCの大型専門店
39,100円
【返品種別B】□「返品種別」について詳しくはこちら□◆作業員の入坑・出坑を名前と写真で把握できます。■ 仕 様 ■取付方法:上部スライド式吊りタイプアルミ樹脂複合板表示内容:入坑者一覧表(入坑⇔出坑)取付仕様:上部穴2ヵ所縦(mm):900横(mm):600質量:4.1kg[134Bツクシ]アウトドア DIY・工具 環境安全用品 標識・標示
ゆうびどう
41,800円
商品内容 硯板が斜めのまま回転しますので墨と硯板が 面ではなく点で接します。 そのため過重が集中して、細密な硯面と併せて 微粒子の磨墨液が短時間に得られます。 水をかき上げながらすりますので、 長時間墨が 水に浸かったままにならずに ヒビ割れやふやけを 防ぐことができます。 墨に思いやりのあるすり方といえます。 多量に使用される方には大容量、2丁掛けタイプ 使用できる墨:1〜10丁型 磨墨量 :60〜80ml 電力 :100V 4W 【商品材質】金属、樹脂 商品実寸法mm:235*165*200 商品実重量g:3200 外装寸法mm:210*205*220 外装+本体重量g:3470 包装資材:紙箱硯板が斜めのまま回転しますので墨と硯板が面ではなく点で接します。そのため過重が集中して、細密な硯面と併せて微粒子の磨墨液が短時間に得られます。水をかき上げながらすりますので、長時間墨が水に浸かった ままにならずにヒビ割れやふやけを防ぐことができます。墨に思いやりのあるすり方といえます。多量に使用される方には大容量、2丁掛けタイプ。使用できる墨:1〜10丁型 磨墨量:60〜80ml 電力:100V 4W
ともえや 楽天市場店
45,047円
高砂人形 正絹木目込 嘉寿 真多呂作 高さ:約21cm 化粧箱入高砂人形の由来 祝言物として有名な「高砂」は、世阿弥作の能の名曲です。物語は、九州阿蘇の宮の神主友成が高砂の浦で松の下を清めている老夫婦に出合い、“高砂"、“住吉"という二本の名木とされる松が「相生の松」と称されるいわれを聞くというものです。この老夫婦が尉(じょう)と姥(うば)で、高砂、住吉の松の精なのです。「高砂」は、昔から祝儀の席でうたわれています。祝言の席でも、『高砂や、この浦舟に…』と、うたわれてきました。この尉と姥を、長寿の夫婦の象徴として嶋台にのせたものが高砂人形です。
栗田貿易株式会社
41,200円
【材質:桧木】 【総高18cm、幅14.5cm、奥行き11.5cm】 天台大師/智者大師 智者大師は梁の大同四年に生まれ、七歳の時すでに普門品を暗誦し、十五歳の時長沙に至って仏像を拝し、十八歳で初志を果たした。 はじめは慧曠にしたがって律典を学び方等に通じ、のち法華経、無量義経、普賢観経等を学んだが、同門の法喜等二十七人とともに金陵(今の南京)に至り、当時禅学の老宿として四隣にその名を得た法済と対論してこれを説破し、大いに名声を博し、道俗師を慕って教えを受けた。 師は、宗煕寺、仏窟寺に入り、ついで瓦官寺を領して、法華経題を講じたが、瓦官寺にとどまること八年で、その間に大智度論を講じ、また禅門を説いた。のち、金陵を去って天台山に入った。以来、帝の崇敬を得て、金光明経を講じ、永陽王に請われ、東陽の講に望み、浄戒をさずけ、ついで金陵の霊曜寺に入り、のち、大極殿において大智度論、仁王般若経を講じ、その後陳亡び随の文帝に至って晋王に請われ菩薩戒をさずけ、王より智者の号を賜った。盧山に帰り、尚陽玉泉に精舎を建て、また十住寺を重修し、玉泉の堂宇ができ上がって玉泉寺の寺号を賜わった。 翌年には摩訶止観を講じ、浄名義疏を撰して王に献じた。天台山に帰ってのち、六十歳を最後とし、仏隴西南峰に葬られた。のち法空宝覚尊者、霊慧大師の諡号を賜わったが、後世もっぱら智者大師と称し、また天台にあった為、天台大師とも称し、伝法の弟子多く、著書には浄名義疏等多数の経疏がのこされた。